本稿は平成16年2月1日にホテルセンチュリーハイアットで行われた「日本台湾医師連合特別講演会」(主催・日本台湾医師連合)における、若林正丈・東京大学教授の講演録です。(文責・日本台湾医師連合)
「台湾ナショナリズムと日本・中国・アメリカ」
1、「結びつく経済」と「離れる心」の乖離が生む緊張
みなさん、こんばんは。ただいま、話しをする前に質問が出てしまい、どうしたらいいものかと思っています。
私もよく覚えております。金美齢先生にそう聞かれて、結構理屈っぽく答えました。
「私が台湾研究をするようになったのは個人的には偶然だけれども、日本は一億人以上いる社会だから、誰か必ずやる人が現れるのは必然だろう」と。
いかにも書生っぽい返事をしたのを覚えております。しかしそれは今となってみれば、正しい理屈だと思っております。
それで今日は2月1日ですが、台湾の方ではもうすぐ、4年ごとの非常に悩ましい選択をしなければならない。一人ひとりが個人として厳しい選択をして投票しなければならない日が、刻々と迫っているのだと思います。前回の選挙の時には、精神科医にかかる方もたくさんいたと伺っております。
日本で2月1日というのは、プロ野球のキャンプインの日でして、夜のニュースの話題はほとんどそれです。みなそれをビールを飲みながら楽しんで見ている。私も台湾のことは研究しておりますが、身は日本においておりますので。だから台湾から東京にこられた方と話をしていると、そのギャップを覚えます。そのようにしながら、台湾を見ているということです。
現在中国大陸と台湾とは、経済的な関係はますます深まっていますが、そうすれば必ず国際上の共通の利益というものが問題になります。それは相互依存関係というのです。
政治的、あるいは軍事的には潜在的な緊張関係にある。「潜在的」という意味は、台湾の政治の中ではいろいろな見方があるのだけれども、そういう状況にある。
90年代の初めのころ、こうした状況について「文章を書いてくれ」といわれて、台湾海峡両岸、中台関係というものを一言で言い表せるキャッチフレーズみたいなものとして考えたのが、「結びつく経済、離れる心」です。
この「経済」とは貿易関係、投資、それとともに動くヒト、モノ、カネです。そして「心」とは、端的に言うと政治ということです。90年代初における「離れる心」という意味での政治ですが、どこが離れるのかというと、当時焦点が当たっていたのは、民主化だと思います。
ご案内のように、中国も改革開放政策をとりまして、少しずつ全体主義的な統制というのは緩み、多様化が進んできたとわけです。80年代後半になりますと、政治改革の必要というものが言われてきました。88年後半に、中国からやってきた改革開放の学者の話を聞いていましたら、ものすごい気炎を上げていましたね。今すぐにでも民主化をするのではないかと。
ところがご案内のように天安門事件起こって、そうは行かなくなってしまった。ところが同じ時期に台湾の方は、90年代初めころから着実に民主化が動きはじめました。当時は、その前から政治的自由化が進んでいて、国民党のリーダーが変わったころから、具体的な制度改革が進んでいたというところでありました。そしてその民主化というところで、「離れる心」ということが言われていまして、それが国際的に評価されるようになったのです。その頂点が、95年の李登輝前総統のアメリカ訪問であったという風に言えると思うのです。
今日、台湾はすでに民主化を成し遂げていますが、民主体制の内実を固めなくてはならない時期に入っていることは間違いありません。たしかに民主化は、国際的に見ると一段落ついているかに見えますが、それでも民主体制がちゃんと動いているかというと、疑問があります。
私は憲法改正をしても、今の国会のあり方、選挙制度のあり方、今の半大統領制というシステムなどは、あまり上手く行かないはずですから、それは変えた方がいいと思っています。
それは別としまして、今日「離れる心」と言ったときには、その内実は政治体制の問題ではなくなってしまった。焦点はアイデンティティの問題であり、ナショナリズムの問題に移ってきていると言えると思います。そしてその一方で、当然ながら、結びつく経済の意味合いも少しずつ変わってきているのではないかと思います。
そう申しますのは、これはなかなか具体的な調査研究があるわけではありませんが、大陸との経済関係が発展しますと、長期的に大陸に滞在する人が増えてきます。広東ではなく、先進的な地域である上海付近に。その数も数十万単位となってきている。なおかつ大事なことは、子弟子女を中国大陸で勉強させる、学校に入れるという行動もとらざるをえなくなってきている。あるいは中国大陸の大学へ留学する人も出てきて、一種の社会学的な関係の変化というのも出てきているのではないかと思います。
その変化のなかで、前回の総統選挙のときは所謂「台商」が、台湾へ戻って投票することもありました。しかしそのときは、それほど選挙の結果に影響を与えたという観測は聞いておりませんが、今回はひょっとしたら影響するのではないかという風に言われていますね。
ある台湾の消息通に伺った話では、「ひょっとしたら今年は、台商が5万人くらい戻って投票するのではないか」と。そうすると五万票が動く。それだけでなく、その影響範囲は20万票くらいではないかと言われています。
総統選挙は、今日の日本経済新聞の報道によれば五分五分のデッドヒートだそうで、そうなると「結びつく経済」「離れる心」の乖離がもたらす緊張いうものが次第に高まっていると言えるのではないかと思います。
そういうことで、日本の学者はあまりやってこなかったことですけれど、やはり台湾ナショナリズムを正面から取り上げて、いろいろ討論の場に乗せ、これは何なのかと考える必要があるだろうと、早急に考えまして、多少の文章を書いたりしています。
本日はそういう私の多少の成果をご紹介させていただきたいと思っております。
2、日本に対して生れたナショナリズムのプロトタイプ
台湾ナショナリズムですが、「ナショナリズム」というのは、そもそも複雑なものです。台湾自体が非常に複雑な位置にありまして、内部も複雑ですから、いろいろな語り方があるわけです。
そこで私は、台湾社会が運命に関わってくるような他の人、他の集団、他の国家、他の社会、他の文化と関係を切り結んだ歴史の中で、台湾ナショナリズムがどのように出来てきて、どういう状態におかれているのかという見方で、お話をさせていただきたいと思っております。
あまり上手く理屈で説明できないのですが、台湾ナショナリズムにはどういうイメージがあるかと言うと、螺旋状のバネの上に台湾ナショナリズムは乗っていて、それは少しずつ上昇しているが、そのバネが4年ごとにはねて、そのバネの上には硬い国際社会の壁があって、それにぶつかる。こういうことになっている。
それで台湾の人たちもだんだんと、ひょっとしたら最後の真実の瞬間に、重大な選択をしなければいけなくなるかもしれない。
選択をするということは、「本当に自分が何を欲しているのかを、自分に問わなければならない」という時です。だから、「真実のとき」という文学的な表現がよく使われますが、4年ごとに台湾海峡に、真実の瞬間が本当に来てしまうのではないかと。
第三者から見ると、あまり来て欲しくないわけですが、そう思わせてしまう。どうもそのような台湾の民主化の形ができている。
それから「他者との関係から述べたい」と申し上げましたが、それは日本、かつての日本との関係ですね。それから中国。具体的には中国とは中華民国と中華人民共和国の二つがあります。さらにはアメリカが存在する。
先に結論的に申し上げますと、「他者との関係」で、台湾ナショナリズムが歴史的に、どういうものであったかを、イメージだけで言わせてもらえば、日本の植民地下の台湾社会の中で、その原型となるものが生まれた、という風に言えると思います。
しかしながら、それはまだ戦後の国際政治のひとつのアクターとして出てくるような台湾ナショナリズムではまだなかった。
現在我々が見るような形は、戦後の台湾にとっての最初の中国、つまり中華民国の統治下で誕生したのだと思います。
しかし台湾では、公共的な場で台湾ナショナリズムの主張はできなかった。そこで台湾の外の比較的自由なアメリカや東京などで、「これこれこうだから、台湾は独立を要求しなければならない」「台湾独立を支えるのは、これこれこういう来歴を持った人たちである」というようなイデオロギー、言説というものが形成され、そういう環境の中で一応命脈を保ってきた。
そして民主化が進む。ナショナリズムはいわゆる中華民国の下で成長しつつ、台湾にとって第二の中国である中華人民共和国と直接に対決する。言ってみれば当たり前のことなのですが、そうした状況できています。
今度は台湾と日本ということですが、台湾は大体九州くらいの大きさで、かなり多くの部分を山地が占めているわけです。清朝の統治の二百数十年間では、中国大陸から漢民族が相当渡ってきており、また山地には原住民族と呼ばれる人たちがいましたが、その時期から台湾人というコンセプトがあったかというと、それは怪しいと思うんですね。やはり我々が「台湾人だ」と想像することができるような社会的な条件は、台湾という地理的な範囲の中で、他よりも台湾の中の方がコミュニケーションの密度が高いという状況にならないと出てこないと思うですね。それが日本の植民地統治下の、植民地的な開発で実現した。縦貫鉄道ができ、道路ができ、電話が通じ、統一的な行政システムができ、学校システムができ、そこに新聞が発行され、社会的な情景が形成されてきた。いろいろな見方がありますが、植民地ですから日本人が統治し、そこには差別もあれば、圧迫もあった。そこで台湾人の漢民族は、言語の差異とは関係なく、植民地の住民であることによって、否応なしに共通の立場に立たされた。
それが1920年代ぐらいになりますと、日本人側から「台湾に住んでいるから、あなた方は台湾人にする」と言われるのではなくて、「我々はこういう共通の運命と文化的背景を持った一つのまとまりの人間である」という考えが現れ始めた。それがやはり台湾意識のそもそもの始まりではないかと思っております。
1921年から34年まで、台湾のインテリと一部の開明的な資産家が、一種の自治運動をやりました。それは日本の本国の議会に対して、台湾総督府の予算と、台湾のみに施行される法律である律令を審議する台湾議会を作って欲しいという運動です。台湾を一つの単位として、なんらかの政治的権利を勝ちとって行くということです。そういう運動をするということは、台湾人のコミュニュティーあるが前提です。
これは戦前の言い方ですから、少し硬いですが、当時の雑誌などではよく、「台湾は台湾人の台湾たらざるべからず」と言われ始めた。そういうことが一種のスローガンとして、台湾、台湾人という非常に強い自覚として言われるようになった。
総督府の警察の史料などを見ますと、台湾議会設置請願運動を推進した幹部の一人が、「台湾議会設置請願の開始とともに、台湾人に人格が生まれた」という言い方をしているんですね。これはやはり、日本という他者が来て、一つのステータスを押し付けた。そしてその押し付けれられたステータスを逆手にとって、「自分たちはこういうものだ」という新しいアイデンティティを自覚したからに他ならないのです。
そういう意味で、そこに台湾アイデンティティのプロトタイプが生まれたと言えるのではないかと思います。
3、中国人になることを拒否された台湾人
1920年代というのは、日本でも左翼の影響が非常に強くなっておりまして、台湾でも1920年代後半には社会主義的な影響が強くなり、特に農民争議が一時激しく行われたときもあります。そうした左翼的な影響もありまして、左翼の陣営の方では段々と、「帝国主義の圧迫を受ける弱小民族の一つだ」という言い方が出てきました。これは地下組織だったから、どれだけの影響力があったのかはわかりませんが、それを一番はっきりさせていたのが台湾共産党というものです。総督府が押収した資料によれば、「台湾には台湾民族というものがあって、それが主体となって日本帝国主義を打倒して、台湾共和国をつくるべし」ということを、ブルジョア革命の第一段階の目標として掲げる綱領があった。
このように、日本の支配に対して、台湾人としてのアイデンティティの形成があるのですが、戦前の台湾のインテリは、「先住民族は台湾人」とは言っていないんですね。蔡培火という人が例外的に、ちょっとだけ言っていますが、基本的には言っていない。そうすると台湾人は漢民族ということになりますから、大陸にあります祖国への憧れがあるわけです。しかし、これは学者の間でいろいろな議論が出てくると思うのですが、祖国と台湾人との関係はそれほど明白ではない。そこへ日中戦争が始まりますと、やはり中国と日本との関係は緊張の局地に達しますから、祖国に対する憧れがあっても、他方で皇民化ということで、日本は「日本人になれ」という圧力を強めたわけですから、そうした中での分裂を経験せざるをえなくなる。
その時になってきて、「中国に属するわけでもない。かと言って本当は日本人にもなれない。我々はアジアの孤児なのか」という運命の感覚が持たれた。それを呉濁流さんという客家の作家が、『アジアの孤児』という、80年代に大変有名になった小説で書いている。
「日本統治下でプロトタイプができた」というのが私の見方なのですが、戦後、日本の植民地帝国は解体したものの、フランスのように、独立戦争をしかけられた植民地を手放して解体したのではありません。統治された側から見れば、支配者が戦争を勝手にやって、勝手に負けて、勝手に崩壊したわけです。負けたことで、台湾は植民地でなくなるという形になるわけですが、そこへ中華民国がやって来た。
あまり「やって来た」と言うと、腹を立てる方もいるかと思いますが、台湾人の視点からするとそうなんじゃないかと思いますね。
1895年に「日本がやって来た」というものもあるのですが、当時の台湾の人にとっては、この日本というものは明らかに他者なのですね。しかし1945年に「やってきた」中華民国というのは、先ほど言った「祖国に対する感情」が残っていたことから考えれば、必ずしも他者ではなかったわけです。その当時中国から派遣された第70軍でしたでしょうか、それを女子学生はセーラー服を着て、男子学生はつめ入りを着て横断幕を作って、基隆の埠頭に迎えに行ったこと等から考えてもですね。
ところがその47、48、49年には、台湾独立の思想というのが一部で言われていたわけです。中華民国、あるいは中国から独立しようというわけです。そのときにはどのくらいの数か分かりませんが、少なくない人たちにとっては中華民国という中国は他者になってしまったということでしょう。
私はこういう歴史的な回顧の仕方がいいのかどうか分かりませんが、中国に対して独立を言う台湾ナショナリズムとは、台湾人の自分の独自の経験を基礎にして、それを認めてもらった上で中国人になりたいという要求が、かなり粗暴に拒否された結果、生れたと言えると思うのですね。
最初の台湾人奴隷化論争というのは、最近の台湾の若い学者によって詳しく説明されています。これは「台湾人は日本人によって奴隷化された」ということです。台湾が光復して、中華民国政府が台湾省として接収するということで、役人、文化人等々が送り込まれた。そのとき役人等がさかんに言ったことが、台湾人は「日本の植民地支配を受け教育され日本の毒素が入っている」「日本語はしゃべれるが、我々の国語はしゃべれないではないか」「祖国の歴史を理解していないではないか」「三民主義を理解していないではないか」ということです。そこで例えば46年のいわゆる光複節には、日本語を公共の場で、あるいは新聞雑誌で禁止してしまったわけです。それから台湾での官吏登用は、一定程度の訓練を受けてからと。これは「中国人とはこういうものだ」という、一種の中国国民党のオフィシャルなナショナリズムの基準で、「あなたはまだ不十分だから、権利を与えるのは割り引きますよ」という理屈です。
この理屈を抽象的なパターンにしますと、日本が植民地統治をしているときに言っていたことと、だいたい同じだと思います。
だから、日本の植民地支配から解放された当時の台湾のインテリには、「新しい中国の建設に参加するんだ」と思っていた人たちがいっぱいましたから、そういう人たちから見れば、非常に心外だったわけです。そこでかなり激しい論争があったといわれているのですね。
そうした状況があるので、一種の自治運動、例えば県市長を公選にしようという運動が始まったころに二・二八事件が勃発して、流血の惨事が起こった。当時の台湾の学者などが紹介している台湾人の反論というのは、「確かに我々は日本教育を受け、日本語も身につけたが、それで奴隷化されたわけではない。我々は選択的に、日本を通じて近代の文化を吸収してきたのだ」という言い方をしているわけですね。だから外省人の役人が、日本的に見える台湾の都市の近代化を、「日本化と見るのはおかしいのではないか」という反発をしたわけです。
それで、台湾人の側から見るともっともな話ではありますけども、二・二八事件で二・二八事件処理委員会を作り、事件の処理だけではなく、台湾省政改革委員会になってしまったわけですね。台湾人は「そういう自分たちのあり方も、中国人の一部だから認めろ」との要求を、台湾人奴隷化論に対して言い始めたわけです。
それが中華民国に対しての反乱だと見なされた。そしてとても治安回復だけと思えないような軍事行動がとられ、流血の回答がきたわけですね。当然これに対する反発も起こってきました。その中で、台湾人には「今の中国と我々は違うんだ」という発想が出てきました。
台湾ナショナリズムの現代的な誕生のストーリーを抽象的に言えば、こうなるのではないかと、私は思います。もちろん当時は、台湾独立の思想だけが選択肢というわけでもなくて、中国の内戦が激しくなり、国民党は旗色が悪くっているわけですから、いわゆる新中国、社会主義の祖国に、新しい祖国を見出すという選択をした人たちもいっぱいいるわけですね。しかしそれで、実際の行動として中国に渡った人たちの多くは、反右闘争、文革という大変な辛酸をなめたということは、今では明らかになっている事実です。
白色テロの下では「台湾独立」も言えなければ、もちろん「社会主義」も言えないわけです。社会主義という新しいアイデンティティで台湾の前途を語ることもできなくなった。台湾ナショナリズムという政治文化的な言説、公共的な主張が出てくるのは、やはり80年代初めくらいからだと思います。
4、「台湾独立」が支持された80年代の背景
49年以降、中国国民党政権は、二・二八事件に反抗したような日本語をしゃべる世代ではなく、その次の世代の台湾人をターゲットにし、それを中国人として統合して行ったわけですね。それは経済的発展もありまして、かなり成功したのではないかと思います。日本がやったよりも、成功したような気がします。ところが80年代になりまして、台湾独立の思想が出てきまして、それが民主化と一緒になりながら発展してきました。2000年の時点で四分の一くらいが台湾ナショナリストの思想に近いという研究もあります。
70年代まで、つまり戒厳令が解除され、あるいはブラックリストが破棄されるまでは、「台湾独立」はタブーであったわけですが、それが80年代以降、台湾の政治の中に登場して、少なくとも有権者の四分の一以上がそれを支持したということは、やはり何かあったわけですね。
45年から49年生まれの間に、二・二八事件や台湾奴隷化論争のような思想的摩擦、政治的弾圧があったのと同じように何かがあったのだろうと思うのです。
それについて最近台湾の若い学者が研究しまして、私もそれを勉強させていただいて、論を組み立てているのですけれども、やはり70年代というものが大事なんだろうと思うんですね。ご存知のように70年代初めというのは台湾、中華民国の外交的危機の段階でありました。80年代を通じて中華民国という国名が国際社会であまり通じなくなってきた。これは危機の時代です。70年代前半ぐらいから政治の面では、選挙を通じて民進党の前身である各種の党外勢力が出てくるわけですけれども、当時の党外勢力というのは必ずしも反対的思想ではないのですね。中華民国のシステムを認めた上で、政治的な合理化をして、「しかるべき地位を与えよ」「政治的権利を欲しい」ということですから、体制内改革であったわけです。ところが1978年に美麗島事件が起こりました。これは一部を除いた党外勢力へのほぼ全面弾圧だったわけですね。二・二八事件のようには行きませんでしたけれども、それでも全面的な弾圧が行われたということ。それが一つです。
もうひとつは、もう一度中国国民党による中国国民形成というのですか、台湾人をもう一回中国人に同化する政策といいますか、そう育成政策の申し子である戦後世代のインテリが、外交的危機のショックの後に、台湾の歴史文学の歴史を振り返って、郷土に回帰する、あるいは郷土文学、台湾の現実に根ざした台湾の郷土そのものを書くという、郷土文学を作り始めた。それが70年代を通じて盛んになり、国民党系の文化人から、中国で言う一種の「労農系文学だ」というレッテルを貼られて攻撃をされた。それで77年から78年かけて、郷土文学論戦と言われる論争になりました。
聞いた話だと、国民党の方も、作家を捕まえ、弾圧しようとした。しかしこれは対米関係やいろいろな事情があってできなかったそうです。
台湾の学者の研究によりますと、戦後世代の評論家たちがやろうとしていたのは、「日本統治時代の文学運動とか文化運動の歴史も、中国のナショナリズムの中では正当なものであって、それを認めろ」という訴えです。そういう論調に対して国民党は、拒否回答をやってしまった。
しかしながら1979年の国民党は40年代末の国民党とは、台湾社会での地位からも、国際的な地位からも違っていたわけです。民主化のプロセスはそこから始まった。
5、中華人民共和国の二面的影響力
台湾社会が出会った最初の「中国」である中華民国が、台湾人の歴史的経験を自分の中に取り込むことに失敗したということが、台湾ナショナリズムが生まれる原因であり、台湾ナショナリズムが民主化の過程を経て復活した大きな理由の一つではないかと感じています。
台湾にとって第二の「中国」との関係とですが、日本と中華民国は台湾ナショナリズムの誕生にとって非常に歴史的な役割を果たしているのですが、中華人民共和国と台湾ナショナリズムというのは必ずしもそうではありません。しかしそうではないけれども、最も重要な関係になっていると思います。
私はあまり議論を整理していないのですけど、私が一番最初に見に行った選挙は、1983年の「中華民国自由地区増加定員立法委員選挙」です。学生によく言うのですが、台湾の権威主義的時代の政治を理解する重要なカギは、この長い選挙の名前を理解することだと重います。
私も最初はお恥ずかしながら、これが何のことかわかりませんでした。まず「中華民国自由地区」と言って、「台湾」とは言わないですね。それから「増加定員選挙」とはどういうことなのか。これを理解したときに、「あっ、これなら台湾政治研究をやって行ける」と思ったわけです。
今から考えると大したことではないのですけども、当時は日本人の記者でも、これを理解していた人はあまりいなかったのではないか。台湾の人にとっては当たり前のことでも、大学院生に毛が生えた若造にとっては大変な発見だったのです。
その選挙で衝撃を受けたことは、今では政府で偉くなっているある方が万華で立候補したときのスローガンの垂れ幕です。そこには「台湾は三回目の運命の危機に直面している」と書かれてあったのです。最初私はよくわかなかったのですが、いろいろ考えてみると、一回目は1895年に日本の植民地にされたことですね。二回目は一九四五年です。そしてこのときは一九八三年ですから、七九年に対米断交となって、中国が祖国の平和統一という形の新しい政治攻勢を台湾にかけてきたという時期ですから、「三回目の運命の危機」とは要するに、ワシントンと北京と台北(台北というのは非民主的な国民党政府ということですけれども)によって、「自分たちの運命を勝手に変えられるのはたまらん」という意味なのだなと、やっとわかりました。
これは恥を言うようですが、「台湾人にとっては、歴史はこういう風に言えるんだ」と。これが私にとっては非常に大きな啓示だった。
そして民主化の台湾のナショナリズムが台湾の内部の政治空間に登場して成長する時間と、台湾そのものが一つの政治形態として、中国大陸と直接にインターアクションを強めざるを得なくなっている時間とは、ほぼ同時並行に進んでいると思いました。
台湾ナショナリズムの言説や思想の起源は、中華人民共和国は関係ないのだけれども、その発展にとってはスタート当初から、中華人民共和国の存在が正面にある。
それは二面的な影響を持っている。一つは台湾意識を刺激する側面と、もう一つは人の往来が激しくなり、経済的利益が大きくなり、かつ社会学的な影響が出てくることによって生じる抑制的な面です。
感じとしては、70年代ぐらいまでは、台湾の親は子女の将来を考え、留学させたがった。五人息子がいたら、「一人はアメリカ、一人は日本に」と言って。「留学したら商売でもやってくれれば」「お医者さんになってくれればもっといい」と。ただ中国留学はその選択肢として考えられなかった。つまり家族の生存発展戦略の中で、冷戦の時代中国大陸というのは、あまり意味がなかったし、現実的に考えなくてもよかったのです。ところが90年代ぐらいになると、それが選択肢となってきた。そうしますと、やはり両面的な影響があるのではないかと。
6、ナショナリズムの形成の場を与えたアメリカ
最後に、台湾ナショナリズムとアメリカということを考えたいのです。
台湾ナショナリズムの思想の誕生に大きな役割を果たしたのが日本であり、中華民国であったわけですけども、アメリカにはそういう意味での関わりというものはありません。もっともこれから思想的影響が出てくるかもしれませんが。
最近、台湾出身の有能だなと思える学者が、日本の統治下で生まれた台湾ナショナリズムの特徴について言っています。例えば、インドのナショナリズムを考えると、ガンジーなんかはイギリスに対抗するため反西洋的近代文明というスタンスをとった。反西洋的理屈をナショナリズムの言説に入れたわけですね。しかし台湾の場合、日本の植民地支配のイデオロギー、あるいは日本の国民統合イデオロギーそのもの中に、「西洋に対抗しよう。植民地になってはいけない」という、西洋に対抗する要素が色濃く持たれていたのです。そこで、その日本の植民地支配のイデオロギーに対抗するため、いろいろな戦略がある中、台湾のインテリは、「日本という支配者よりももっと近代的になるんだ」という思想を選択したと、鋭く指摘するのです。
「なるほど、そうかな」と思いました。そういう意味もあるのでしょうか、今で言えば統一派といえる昔の作家が言っていたと思うですが、「台湾は不思議だ。政府も、反政府派も親米だ」と言うのです。
そうするとアメリカというのは、台湾ナショナリズムの思想にとっては、つねに二つの相反するものを持って、台湾のナショナリズムに対処していると思うのですね。
この国は冷戦の時期は、蒋介石政権を支えているわけです。つまり白色テロの背景にはその支えがあったのですが、その一方で台湾人の亡命者も受け入れているのです。彭明敏さんを受け入れたのもアメリカです。また台湾内部の政治弾圧があまりに強すぎると、チェックを入れたりしていますよね。
そこでアメリカは台湾ナショナリズムの理論形成を行う環境を提供したわけです。東京も一時期、規模は小さいですが、そういう風だったと思います。つまり一方で独裁政治を支持しながら、台湾の公共的な場で存在できない政治的な言説の展開の場を与えたのです。
台湾ナショナリズムにとっては、アクセルとブレーキの両方を持っているような感じになっているのではないかと思うわけです。カーター政権は台湾と断交しましたが、議会の方が反発して、当初カーター政権が要求していたものよりも、よっぽど広範な内容の台湾関係法というものができるのです。
米国は、北京との外交関係樹立で、台湾問題を平和的に解決するという展望に基づいて、北京のいう「一つの中国」をある意味で承認しながら、台湾には防衛性の武器を供給し、それから台湾の民主化にとても重要だったと思うのですが、「台湾の住民の人権に注意を払う」と言ったのです。
ある意味で80年代前半というのは、在米台湾人の議会へのロビー活動等を媒介にして、台湾関係法の条項が台湾の民主化の外部環境を提供したと言えるわけですね。
そういう中で、一定の自由を得た台湾ナショナリズムの言説が広まって行ったのです。
アメリカは「台湾との公式な関係は持たない」としている。そういう意味では台湾の頭を抑えている、つまりブレーキをかけているのですね。しかし民主化を促進することは歓迎する。つまり台湾の政権側から見ると、人権条項とは武器を売ってもらうための条件でもあるわけです。
ですからアメリカは台湾に宿題を出したようなものですね。「台湾とは外交関係はないが、ワシントントンの支持を得て、事実上の独立をエンジョイしたいのなら、少しは民主化しなさいよ」という宿題です。
同時に北京からも宿題が出ています。「平和統一をしなさい」という宿題です。
ワシントンと北京から宿題が出て、結局蒋経国は両方の宿題をやろうとしたと思うのですが、戒厳令を解除して、その年に大陸里帰りの解禁もやっていますね。
アメリカはアクセルとブレーキの両方を持っていて、時にブレーキの方がきつくなる。この数ヶ月もきつくなっていると思います。
7、歴史への回答としてのナショナリズム
まとめですけれども、今日台湾ナショナリズムがこうした風になっている。それは、いろんな時代の変わり目における、いろいろな人のちょっとした選択というものが影響していると思います。例えば45年から49年の時期において、あるいは45年から二・二八事件に満たないような時期において、さまざまなことが一歩別の方向に行っていれば、その後の歴史は違うものになっていたということが、いっぱいあったと思うのです。
しかしそういうことはおいておき、百年以上の歴史、しかも台湾だけでなくアジア全体の歴史を見てみると、「私が説明したような台湾ナショナリズムというのはいったい何のか」「どうしてそういうものが台湾では力があるのだろうか」「どういう風に解釈すれば第三者として台湾にこういうものがあるんだと納得できるのか」と、考えたくなるのです。
これは東アジアの近代に限らないのですが、台湾の歴史的な位置、地理的位置、国際政治の力関係によってもたらされた位置、つまり地政学的位置から見ると、東アジアにおける大きな力関係の転換があって、新しい中心ができると、台湾はその新しい中心に位置づけられている。たとえば新しい中心である日本が没落すると、台湾は次の新しい中心によって、新しい位置づけを押し付けられる。このような歴史があったといえると思うのですね。
もしその歴史の変化が、台湾の人々の生活に関わりがなければ、アイデンティティの問題など生じなかったわけですけれども、そうは行かなかった。1895年の日清戦争は、台湾の水田で水牛を追って米を作っていた人たちにとっては関係のない戦争でしたが、しかし日本という統治者は、今までの統治者と違ってアグレッシブに社会を変えようとし、そして変えてしまいましたから、民衆はそれにようやく適応したと思ったところ、今度は日本が勝手にやった戦争に負けて、出て行ってしまった。そして新しい政府がやってきた。そこでナショナリティを二回変更するという風になったわけです。
その変更により、変更される側は、自分自身や家族などの生きる戦略として、大変な思いで適応しなければならない。「自分とは何か」、あるいは「息子や孫が何人になるか」を必死に考え、家族の発展戦略を練り直さなければならない。そういった経験をさせられてきたのではないかと、私は思うのです。
そういう背景から考えれば、台湾ナショナリズムというものは、台湾という地域に一つの主権国家を確立して、「そのようなことをしないで済むようにしよう」という台湾人の歴史への回答とも理解できるのではないでしょうか。つまり周縁性というものの歴史に、それなりに「自分たちでけりをつけたい」というのが、台湾ナショナリズムではないかという風に考えることができるではないかと。
台湾は周縁の社会でしたから、中心との関係に振り回されてきた。そこで台湾人が自分自身のエイジェントになるという意思の表明がされているのです。台湾を事実上独立している国家として、その大きな資源を動かすことのできる国家の権力あり方に関わるようなイデオロギーが登場している。
台湾ナショナリズムは国際情勢によって調整されるものとは言っても、歴史的に見れば中心が作っているシステムというものに対して、かなりの程度まで自分自身の主体というものを取り戻しつつある。その台湾の社会が、歴史的な挑戦を投げかけている。
それにアメリカ、中国、日本の国民がどう対応するか。それも21世紀の東アジアを形作る大きな要因になってくると感じている次第であります。
ご清聴ありがとうございました。
●質疑応答
Q:李登輝氏が訪日しようとしたときに、慶応大学でダメを喰った。中央大学に至ってはインターネット講演すらもダメを喰った。これはおかしい。おそらく若林先生は外国人の参政権には賛成なさっていると思うのですけど、たかだが日本に来て講演なさるくらいのことがだめだというのなら、大学人として立ち上がらなければいけないと思うのですが、
どのようなお考えかお尋ねします。
A:慶応大学での事件の経緯というのはあまりよく知りませんが、例えば李登輝さんが何年後かに、政治的にあまり重要ではない人になり、マスコミもあまり集まらず、例えば「台湾農地改革がどういう政治経済的意義を持ちました」という話をするだけなら、日本の大学も学者も、マネージできると思うのです。だけど李登輝さんは、やはり政治人物として、今も影響力があるし、その一挙手一投足でいろんなことがある。来られるなら安全に来ていただいて、安全に帰っていただかなくてはならない。そうするためには「会場、警備などをどうしたらいいんだ」ということになる。きちんとマネージしてやるという風にしないと無責任だと思います。そういう意味で言うと、相当のしかるべき政治的仕掛けがあって、警察も動いてくれる、マスコミも支持してくれる、物質的にも安全だというようなマネージができなければいけないと思うのですね。
例えば私は、昨年まで日本台湾学会の理事長をやっていましたが、冗談で「李登輝さんを元総統ではなくて、李登輝博士として台湾学会の総会に呼んでいいんじゃないか」という話が出ました。これは理屈としてはいいのですが、しかし一任意団体がマネージできるのかと。仕掛けがないと無理です。そういう仕掛けを作るのは、台湾では学者が政治家ですが、日本では基本的に学者には政治能力がないですから、無理ですね。
Q:台湾出身で日本に移り住んで20年です。先生の言う「真実の瞬間」というものを国際法で解決するならば、どういう方法があるのか、学者の目から教えていただきたいです。例えばカイロ宣言が根拠のワンチャイナポリシー。それによれば我々は、中国と交渉しなければならない。しかしもう一つのサンフランシスコ講和条約の後は、台湾地位未定論というものがありますね。それによれば当時台湾を占領したアメリカが決定権を持っているという言い方もできますしね。三番目としては、我々は自決する権利を持っている。その三つについて、先生の考えをお伺いしたいです。
A:私は台湾独立の革命戦略家ではないので、そういうことはわかりませんね。ただいまのは交渉戦略でしょう。交渉戦略とは、そういう場になったときに、どういう風に有利に選択して、相手を言い負かさないまでも、場をつないで負けないで帰ってくるかという場合に出てくる話です。カイロ宣言の解釈が台湾ナショナリズムを有意義な方向に変えるということではなくて、方向が変わってから戦術戦略、選択の話になるのではないでしょうか
Q:私の父は大陸から移り住んだ中国人です。いわゆる外省人の2世なのですけど、母は台湾人でありまして、そういう外省人の第二世のアイデンティティについて、先生には研究がおありでしょうか
A:日本人は外省人の研究はやりにくいんですよ。台湾ナショナリズムが歴史的にどういう風に形成されたかの話しかできなかったのですが、ナショナリズムというのも、その思想運動と政治権力との関係とが変わると、内容も変わってくると思うのです。海外亡命の時期は、台湾の中華民国体制を打倒する革命思想ですね。ところが90年代に入ってくれば、今度は台湾社会を統合する思想にならないといけなくなってくる。言っていることもだんだん変わってきていると思うのですね。
四大族群とかいう言い方も出てきてますね。台湾ナショナリストが、そういう統合的な議論を、どういう風に積極的に行い、その理屈を「その通りだ」と信じてもらうための行動をするかが問題になってくるわけです。
外省人の二世の方が、そういうような台湾ナショナリズムの現実の変化とか、担っている方のパフォーマンスの変化だとか、そういうものをどういう風に感じているのかは、私にはわかりません。
日本人以外の外国人にはそういう理屈はないわけでして、私の知り合いのフランス人学者は、フランスのブルターニュ半島の方にはベートン人という少数族群がいますから、わりと台湾の族群問題にも理解するセンスがあるのです。それで博士論文をパリ大学に出した。フランス語で1000ページにもなっていますが、たくさんインタビューをしたり、アンケート調査をやっている、なかなかいい論文です。最近その要約版が台北で出たんですよ。私はまだ読んでいないのですが、そういうので理解して行くしかないですけども。すみません。あまり答えになっていないですね。
Q:私、在日30年の者です。ひとつの質問をさせていただきます。先生の言葉で言うと、台湾人が受け入れることのできない中国人の基準は何ですか。
A:どの部分をおっしゃっているのかわからないのですが、例えば先ほどご紹介した、台湾人奴隷化論でいうと、中国国民党は中国ナショナリズムを正当だと思うんですね。
そして中国国民党の「中国とは何か」「中国人とは何か」の定義には、大体の範囲はあると思うのです。国語が話せて、三民主義がちゃんと言えて、領袖に忠誠であるなら、「それがチャイニーズだ」という基準が。
これは日本統治下で「奴隷化された」と見なされている台湾人にとっては、「中国人になるためには、ちゃんと禊をしなさいよ」という理屈なんですね。これは日本の植民地支配での理屈も同じですが。
ただ基準というのは、権力が持っている人が決めるわけですから、歴史的に見た客観的基準はなかっただろうと思います。